2. ダンバードル・タマルはじりじりと太陽が肌を焼く土の道に立っていた。この土地に毎日降り続ける雨によって道はぬかるみ、一歩進む毎に足をとられた。足もとだけをみてしばらく歩いていた少年の耳に、男性の叫び声が飛び込んできた。 「命を先行させて! いのちを! 命を先行させれば、うまいへた問いません!」 土と藁でできた校舎の庭で生徒たちが踊っていた。踊りの授業が行われていた。その老境に入った男性教師の声があまりにも若々しく、指の先から、何かがほとばしるのに彼はみとれて、つかのま太陽も雨も忘れ、立ち尽くした。 「おや、めずらしいね。お客様だ。いらっしゃいな。見慣れない顔だ。どこからきたんだい」 「隣の村です。一週間歩いてここにたどり着きました。人を捜して旅をしています。ずっと僕の夢にメッセージを送ってくれている人に会いたいと思っています」 少年は答えた。教師は 「そうかい」 とひとことつぶやき、再び生徒たちに向き直し、情熱的に語りかけた。 「命を交換しなさい。命と命で踊るのです。ここまで命を運んでくれた母や父、その母や父、その永い永い道のりと命の重なりを思いなさい。形ではない。テクニックでもない。命を先行させれば、何も問いません。命で踊るのです。命に最低限の肉体がついてくるのです!」 少年は老人の目があまりにも強い光を宿していることに、見惚れ、また立ち尽くした。 (彼のような先生がいたら、僕はきっと舞踏家としての道をゆくことを決めたに違いない) 彼は老人の動くさまを一秒でも長くみていたいと感じていた。時がゆっくりとすすむことを祈った。どれくらいの時間が過ぎただろう。授業が終わり、老人は少年の前に立っていた。老人はただ、立ち、歩くだけで、そのすべてが舞いだった。あぁ、この老人はいままさに話し始めるのだな。その手が指先のかすかにふるえて空を差したことが合図だった。 「どんな人をさがしているんだい。この老人に教えてくれるかい」 「はい」 旅立ちの日の夕刻、空に答えた時のように、彼は返答した。 「僕の夢にたびたびメッセージを送る人がいるのです。それは、僕の知らない文字で書かれています。でも、僕には読めるのです。そのメッセージは度々、僕の夢に現れては、心を強く揺さぶります。なにか、ここではないどこかに、その答えがあるのではないかとずっと感じてきました。そして一週間程前に、旅にでることを決めました。最初にたどり着いたのがこの村です。あなたの声が耳にはいってから、胸一面に広がる若葉の緑を感じました。どうしてかわかりませんが、あなたのことばのひとつひとつが、僕を泣きたくさせるのです。なぜかわかりません」 老人はまっすぐに少年を見つめていた。 「あなたは特別な人なのではありませんか。どうしてそのような目をしているのです。たくさんの人があなたを通ったのではありませんか。そして触れようとしたのではありませんか。あなたはどうしてその年齢にいたるまでその目の輝きを失わずにいられたのですか。僕に秘密を教えて下さい」 少年はひと息で話した。質問への答えと、老人への質問や好奇心がまぜこぜになってしまったことと、思いのままにことばを投げつけてしまったことをすこし恥ずかしく感じて、目をそらした。老人は微笑んで言った。 「私はね、踊る事をずっとやってきたんだよ。そして、それをどのように世界に、神に捧げようかと、考えてきた。道が自分の中にあるということをみつけてから、私は大地にぴったりと立てるようになった。そして、その足は、誰に侵される事も穢される事もない場所に連れて行ってくれた。私はだれもかれもに触られたが、本当には触れられたことはいちどだってなかった。私自身すら、触れる事ができない。私は私であって、神の指先。この指先がどこかをさすとき、それは、私の意思によるものではない。ほとんど私の意思によるものではないのだ。集中のなかに自分を放り込むことだけが私の意思によってなされたこと。神の指先として踊ること、それだけが私の誇り」 少年は目に熱くこみ上げるものを感じたが、もう目をそらすことはしなかった。少年は感じていた。この美しい人が何もかもを話したいと思うような自分にならなければ。 この老人の内包する深く芳醇な海をいつまでも感じていたかったけれど、少年はその場を発つことにした。質問したからといって、すべてきかせてもらえるわけではないのだと感じたからだった。あの老人がひとつのことばをつかわずとも、そのメッセージを受け取ることのできる自分になりたい。と少年は思った。もう質問はしなかった。ただひとこと、 「初めに出会ったのがあなたであったことは僕の旅の運命を決めました。あなたのみせてくれたうつくしいひとつひとつのしぐさを胸にしまって歩きます。旅の中で何度も思います。いつかもどってきたときに、また舞をみせてくださいませんか。どうか。僕はそのことを楽しみに歩みを進めることができます」 老人は言った。 「もちろんだよ。戻ってきなさい。健康と幸運を祈るよ。行きなさい。また雨が降り出しそうだ。旅の中でたくさんの愛をみつけられるように」 「さよなら」 少年は傘をさした。太陽と雨が交互に降るこの村の一本道をただ、ひたすらに歩き続けた。そよそよと若い緑色の稲が、見渡す限り揺れている。 (この土地で育つ米はきっとしあわせだな) 少年は息をするのもやっとの蒸し暑さにひれ伏しそうになりながら、それでもその土地の美しさを見逃す事はなかった。あの老人の声がいつも聴こえるような耳でいたい。あの老人のかすかな指先の震えを見逃す事のない目でいたい。 「命を先行させて。いのちを!」 老人の声が耳の奥でこだまする。交互に降る雨と太陽を、開いたままの傘で受け流しながら、少年は次の場所をめざした。