3. どれくらい歩いただろう。ダルバードル・タマルは大きな街の入り口にたどり着いた。いつかどこかで見たような風景だと思いつつ、こんな町には一度だって来たことがないと思いなおした。少年は降り始めた雨を額にうけながら、雨粒のリズムに合わせて、ぽつぽつ、と歩き続けた。景色は彼の村とは違って、一歩進むごとに色合いを変える。街灯はオレンジの光を放ちながら、少年を歓迎しているのか、拒んでいるのかまったくわからないまま、まっすぐに歩いた。石畳の道が始まる。緩やかな坂道。2、3人の男とすれ違った。濡れた石畳の道にオレンジ色の街灯が映るのを眺めながら、夜にこんな町の中をあるくなんて、夢のようだな、と感じていた。風にのって、ギターの音が聴こえてきた。男性の歌う声。不思議な歌だった。癲癇の踊りを歌う曲だった。うつくしい歌声にうっとりと耳を傾けていた。少年はついにその歌声の主のもとに辿り着いた。いくつかの曲を歌いきって、その男性は少年に言った。 「くたびれた靴だね。旅人かい」 「はい」 少年は答えた。 「夢にメッセージをくれる人に会いたいと、旅をしています。こんなにすてきな町並みをみるのははじめてのことです。あなたはここで生まれたのですか」 「そうだよ。この街に生まれて、いまも暮らしている。たまに、演奏の仕事で他の土地を訪ねることもあるけれど、一年のほとんどの時間をこの街で過ごしている」 「この町のことをすこしだけ教えていただけませんか。僕はこんなに美しい道や家々をみたことがありません。この町がどこまで広がっているかも知りたいのです」 「いいだろう。そのまえに、なにか食べないか。私ははらぺこなんだ。うちによっていくかい」 「そんな…。よろしいのですか。実はとても空腹なのです」 少年はほんの少し考えたが、男性の誘いを受けた。その男性がどんな人で、安心できる人物かどうか、という疑問が彼にまったく湧いてこなかったのは、男性の歌声があまりにもやさしく彼を包み込んでいたからだ。漆黒の縁の太い眼鏡をかけて、口ひげを生やしたその男性の顔はよく見ると左右非対称で、右の目が二重、左の目は一重だった。じっとみつめていると、そのふたつの目が別々の表情をしているようで、どきりとした。その男性はギターを黒い革のケースに大雑把にしまった。丁寧なギターの音や、やさしい歌声とは別の表情をその仕草は湛えていた。ケースを抱えた男性と少年はいっぽいっぽ、石畳の坂道を上ってゆく。坂を登りきったところにみえる、白い壁の四角い家を指差し、 「あすこまでゆくよ」と男性は言った。 家に到着すると、今日の朝ごはんをたべたときに切っただろうオレンジの切れ端や、パンのくずがみえた。男性が家で、毎日の料理を怠っていないことがすぐにわかった。流れるような生活の、健康的な香りが部屋中に満ちていた。 部屋には、いくつかの楽器をみつけることができた。茶色のグランドピアノや、いくつかの種類のギター、ちいさいものやおおきいもの。いくつかのシンプルな形の笛。男性はその全てを一通り演奏できるという。 「この街はほとんど全ての人が創造することを生業として生きている。文章を書くひともいれば、音楽を作るひともいる。絵描きや、写真を撮るものもいる。多くは音楽を作る人たちで、この街では、どんな時間に、どんなに大きな音をだしてもだれからもとがめられたりしない。お互い様だからね。私たちは完全に自由だし、そして周りの人たちの自由についても理解しているんだ。君も突然歌いたくなることってあるだろう。ただ、どうしてかわからないけれど、とにかく歌いだしてしまうときって。そういう沸き上る感情をこの街では一度だって我慢しなくていいんだ。そうしたら、自然とこの街に音楽家がふえていったのさ。そして、すばらしい音楽が生まれている。みな、いつだって景色をみにいくことができるからね。ここにいれば」 「どういうことですか。景色を見るとは」 「音楽が生まれる時に、集中するときのことだよ。時間の密度が上がり、いくつかの時が同時に流れるような感覚が生まれる。そして、ふっと景色が目の前にひろがるような感覚になる。それを、私の場合はまんなかあたりから、丁寧に拾い上げて、ことばにして歌詞をつくったり、はじから、丁寧に写してゆき、一曲にしたり、三曲にしたりする。その時にみえた景色にあわせてね。音楽でなくてもそうさ。物語を書くときも、詩を書くときも、多くのひとが、その景色をみにゆくだろう。そういうことはこの町では学校のいちばん基礎の授業で聞くはなしだよ」 「僕の村の学校には音楽や美術の授業がありましたが、そういったはなしは聞いた事がありません。自由な気持ちになって、好き勝手に歌いだしてしまったら、きっとしかられてしまったと思います」 「それはたいへんだ」 男性は豪快にわらった。 「この街の特別すてきなところはそんなところかな。そのすばらしさを君も体験してみたらいい。気持ちのままにここにある楽器を弾いたり、歌ったり、それ以外にも、やりたいとおもうことをすきにやってみなさい。私は食事の準備をしよう」 少年はとまどった。いままで一度も楽器という楽器に触れた事がなかったから。先ほど男性が弾いていたギターの黒の革のケースをおそるおそる開いて、その弦に触れてみた。その小さな指先の動きに連動して、か細く響く。少年は自分の中に、何か電気がはしるような感覚を覚えた。キッチンでは、男性が 「ふふ」と鼻をならした。ギターを見ようみまねで抱えて、弦を指で押さえてみた。指に食い込む弦が思いのほか痛くて驚いた。先ほどまでは男性は空気をさわるように優しく触れて、軽々と弾いているように見えたのに。少年はギターの弦を抑える事をやめて、ただ、音を鳴らし始めた。先ほど体を走り抜けた電気の衝撃が体に残っている。(なんだろう、この気持ち) すると突然、隣の家から、 「ぼーう」とう大きな音が聴こえた。続いて、 「がっはっは!」という大きな笑い声。窓を開けてテラスにでると、男性が教えてくれた。 「始まったな。隣の家のおじさんも音楽家なんだ。朝と夜の2回、テラスで法螺貝を吹く。そして大きな声で笑うんだ。あれが彼の音楽さ。音楽といったって、なんだっていいのさ。その人に流れるもの、そのしっぽをつかんでひっばりあげればいいもわるいもない。確かにながれてさえいれば、なんだっていいんだ。誰かに聞かせるというものでなくて、いい。自分の中に流れるものを、なにかのためでなく、ただ、そのものをとらえてゆく、ということ、それ自体をただかんじてゆくということ。それぞれのやりかたがあるはずだから、それがどんな形であってもいいだろう。音楽でなくたってね」 男性はキッチンに戻っていった。 「それ自体を喜びと思うもの」少年は心に何かあたたかいものがともってゆくのを感じた。 遠い昔に、祖母が歌ってくれた歌を、彼は歌い始めた。懐かしく、やさしい手、丸い指先、さがった目尻、おじいさんに微笑むときのやさしく甘い微笑み。全部がだいすきだった祖母の声を耳元に感じながら、彼は歌った。途中で突然に咳き込み、涙が流れた。それでも、歌を歌い続けた。彼は体の底から声をだしたことによって、全身がこまかく震動して、細胞のひとつひとつが、生きていることを、彼に伝えていると感じた。 ふと、目の前に景色が見えた。祖母の手のひらが自分の手を包み込む。瞬間、世界の全てに僕は安心しきっていた。これまでにたくさんの愛をこの手に受けてきたという、その景色がみえた。集中と密度とはこのことなのだろうか。少年は止めどなく流れる涙をそのままに、ぼんやりと考えた。体中がこまかくふるえている。 「歌うとは、そういうことだね」 男性は優しく声をかけ、少年を抱きしめた。 「食事の支度ができたよ。いらっしゃい」 「はい」 少年は涙を拭い、突然に空腹であることを思い出した。テーブルには大きな鍋が真ん中に、そして、いくつかの小さな皿に、彩り豊かな野菜がのっていた。湯気に祖母の微笑みが映った。